【当事者の声】リンパ腫、敗血症の経験から考える薬剤耐性と患者アドボカシ―(2026年6月12日)

クリスティン・モルヴェン氏
オスロ大学病院 医師
目次:
(1)がんの告知と「治癒」からの急転
(2)免疫ゼロのなかで進む治療と敗血症
(3)ノルウェーだから受けられた治療
(4)薬剤耐性は保健医療システムの気候変動
(5)がん患者として、医師として、声を上げるということ
(6)患者の物語が医療と政策をつなぐとき
(1)がんの告知と「治癒」からの急転
2021年11月、私は進行性のリンパ腫と診断されました。医師としてがん治療に関わってきた一方で、自分が患者として診察室にいる現実を受け止めるには時間が必要でした。
治療は順調に進み、がんは治癒したと医師からは告げられました。しかし、その喜びは長くは続きませんでした。数週間のうちに下半身に力が入らなくなり、短期間で腰から下が麻痺し、気がついたときには車椅子に座っていました。詳しい検査の結果、がんが脊髄にまで広がっていたことが分かりました。中枢神経系にリンパ腫ができた場合、治療をしなければ余命は6週間であるとの説明を受け、再び厳しい現実と向き合うことになりました。
(2)免疫ゼロのなかで進む治療と敗血症
私には、4コースの化学療法と、骨髄に新しい幹細胞を移植する前に行う非常に強力な5回目の化学療法が予定されていました。各コースのたびに免疫機能は完全に失われ、白血球はほとんど残らない状態になります。体は完全に無防備であり、軽い風邪のような感染症であっても、命に関わるリスクがありました。そのような状況の中で、私は敗血症、つまり血液の感染症を発症しました。免疫がほとんどないタイミングでの敗血症は極めて危険な状態です。自分自身の力で戦えるだけの手立てはありませんでした。高熱が出て、顔から血の気が引いてきました。
このとき私が何とか救われたのは、抗菌薬があったからこそでした。もし抗菌薬がなければ、あの治療を生きて乗り越えることはできなかったと、今でもはっきり感じています。
(3)ノルウェーだから受けられた治療
こうした治療を生きて乗り越えるには、徹底した感染管理と、必要なときに確実に使える抗菌薬の存在が欠かせません。生き残るためには、医療スタッフの技術だけでなく、抗菌薬という資源にアクセスできるかどうかが大きな意味を持ちます。
私はときどき、多くの国では、この病気に対して同じレベルの治療を提供するだけの資源がないのではないかと感じます。生きてこの治療を乗り越えるには、それほどまでに徹底した感染管理と、抗菌薬への安定したアクセスが必要だからです。
実際、私は感染が起きたときに備えて抗菌薬があるという安心感のもとで治療を受けることができました。薬剤耐性が比較的抑えられているノルウェーで治療を受けられたことは、まさに幸運だったと言えます。一方で、ノルウェーでも薬剤耐性菌は増加傾向にあり、2024年11月に政府は薬剤耐性菌の拡大を抑えるための35項目の行動計画を打ち出しました。
抗菌薬の適切な使用と国際連携なくして、命を守るこの大切な資源を将来に残すことはできません。ここノルウェーでの私自身の経験も、世界で進む薬剤耐性の流れの中にある一つの例に過ぎないのだと感じています。
(4)薬剤耐性は保健医療システムの気候変動
がんや移植医療のような高度な治療は、抗菌薬が効くことを前提として成り立っています。がんそのものを抑え込むことに成功しても、最後に感染症をコントロールできなければ、せっかくの治療が活かされないことを、私は身をもって経験しました。
薬剤耐性は、保健医療システムの気候変動であるとも考えています。耐性菌が増えれば、医療は何十年も前に後戻りし、これまでの医学の進歩が失われかねません。その結果、がん治療の途中で命を落とす人が増える可能性があります。世界は小さくなり、人やモノ、微生物は国境を簡単に超えます。どんな抗菌薬の使用であっても、将来の耐性につながる可能性があることを忘れてはなりません。
抗菌薬は、人の命を救うことができる限られた資源です。それは「私のような人」の命を守るものであり、また、これから治療を受けるがん患者たちの命を守るためにも、次の世代に受け渡していかなければならないものだと考えています。
(5)がん患者として、医師として、声を上げるということ
これまで私は、医師としてがん医療や感染症の患者さんを診てきました。一方で、進行性リンパ腫と敗血症を経験したことで、「患者としてベッドの上にいる自分」という立場も持つようになりました。2つの立場を行き来した経験は、検査の数字や画像だけを見ていた時には気づきにくかった不安や孤独感、仕事や子育てを続けながら治療を受ける難しさ、そして「効く抗菌薬があるかどうか」に自分の命が左右される現実を、これまでとは違う深さで立体的に受け止めるようになりました。
治療を終えた後、私はAYA(Adolescents and Young Adults(思春期・若年成人))がんの患者団体に参加し、専門家から自分の患者経験をどう伝えるかについてトレーニングを受ける機会に恵まれました。この経験をきっかけに活動の幅とつながりが広がり、医療機関での勉強会や全国規模のイベント、ときには国会や国際会議など、様々な場で自身の物語を共有するようになりました。そこでは、治療を受ける人を家族や医療従事者、地域社会がどのように支えうるかを伝えてきたつもりです。2023年から始まったノルウェーがん協会との協働を通じては、組織的なアドボカシーがとりわけ政策の形成や変更に実際に大きな影響を与えうることを実感しています。
2023年12月にノルウェー議会で発言する機会を得た際には、がん患者がたどる感情の揺れや生活の変化を率直に伝えるとともに、がん医療における抗菌薬政策の重要性を訴えました。がんとAMRという少し抽象的で難しく聞こえるテーマも、具体的な人の物語を通じて語ることで、「自分や家族の問題」として理解されやすくなります。個人の経験が、臨床現場の議論と政策の議論の間に存在するギャップを埋め、医療や健康をめぐる議論が「最も影響を受ける人たちの現実」に根ざしつづけることができる―そのことを、自らの活動を通じて強く感じています。
(6)患者の物語が医療と政策をつなぐとき
患者アドボカシーは、特別な資格を持った一部の人だけが行う特別な活動ではありません。治療のつらさや恐怖、支えになった言葉や仕組み、どこに苦しさを感じたかを、自分が話せる範囲で少しずつ共有することで、患者、医療者、政策担当者、市民をつなぐ小さな対話の輪を増やしていくことができます。
同時に、このような活動の多くはボランタリーであり、時間や心のエネルギーを必要とします。無理なく続けるためには、雇用主の理解や柔軟な働き方の制度、そして社会全体として、患者の声には、医療と政策をより良くしていく価値があると認める姿勢も欠かせません。
薬剤耐性は、「どこか遠くの国で起きている問題」でも、「ごく一部の特別な患者だけの問題」でもありません。がん治療や手術、集中治療など、命を支える多くの場面ですでに現実のリスクとして存在しており、抗菌薬は人の命を支える限られた資源です。こうした現実を伝えるうえでも、当事者の物語は重要な役割を果たします。
多くのアドボカシー活動は特定の疾患に焦点を当てていますが、アクセス、コミュニケーション、サポートといった医療システム全体の課題に目を向ける疾患横断的な患者アドボカシーの場も、これからますます重要になると感じています。また、プライバシーを守りながら自分の経験を共有するためには、どこまでを語り、どこからを守るかというバランス感覚と覚悟も必要です。
私自身の経験が、抗菌薬を大切に使うことの意味や、AMR対策の議論に患者の視点を組み込んでいく必要性について、読んでくださる方が考えるきっかけになれば、患者としても医師としてもこれ以上の喜びはありません。
薬剤耐性菌に関する症例報告
■第1回「キャンディン系抗真菌薬をブレイクスルーした播種性糸状菌感染症」
冲中 敬二(国立がん研究センター東病院・総合内科、中央病院・造血幹細胞移植科(併任)、感染制御室室長)
■第2回「耐性菌の影響は生まれたばかりの乳児にも!耐性菌による尿路感染症の生後5か月男児」
笠井正志(兵庫県立こども病院 感染症内科 部長)
大竹正悟(兵庫県立こども病院感染症内科 フェロー)
■第3回「カンジダ血症ではルーチンの眼科的精査が必要!」
植田 貴史(兵庫医科大学病院 感染制御部)
■第4回「MRSA感染症治療における適正使用の重要性。リファンピシン単剤治療による耐性誘導に注意。」
茂見 茜里(鹿児島大学病院 薬剤部/感染制御部)
■第5回「ピペラシリン/タゾバクタムとバンコマイシンの併用により腎障害発現リスクが上昇」
鏡 圭介(北海道大学病院薬剤部)
菅原 満(北海道大学病院薬剤部/北海道大学大学院薬学研究院医療薬学部門医療薬学分野薬物動態解析学研究室)
■第6回「リネゾリドの血中濃度モニタリングにより血小板減少を回避-難治性化膿性椎体椎間板炎でリネゾリドの長期投与が可能となり治療が奏功-」
鏡 圭介(北海道大学病院薬剤部)
菅原 満(北海道大学病院薬剤部/北海道大学大学院薬学研究院医療薬学部門医療薬学分野薬物動態解析学研究室)
■第7回 当事者の声「薬剤耐性菌の問題に関心をもち、抗菌薬の適切な使用を推進する医療従事者が増えることを願っています」
伊東 幸子(AMRアライアンス・ジャパン サポーター/肺NTM(Nontuberculous Mycobacteria:非結核性抗酸菌)症 当事者)
■第8回 「安全性だけではないTDMの活用法 ~有効性確保のためにできること~」
桝田 浩司(学校法人国際医療福祉大学成田病院 薬剤部 副主任)
池田 賢二(国際医療福祉大学 成田病院薬剤部責任者/薬学部准教授)
■第9回 当事者の声「眼科疾患と薬剤耐性の経験」
丸山 純一(元 駐セルビア日本大使)
■第10回 当事者の声「紛争地域における薬剤耐性対策:ガザ地区での診療から見た紛争地域における薬剤耐性対策の課題と新たな視点」
鵜川 竜也(国境なき医師団 医師)
